弥彦の民話

イラスト 御神木(椎の木)(ごしんぼく〈しいのき〉)
 彌彦神社参道の手水舎(ちょうずしゃ)と広場を隔てた右上段、石柵を巡らして、御神木椎の木が茂っています。
 祭神が持っておられた杖を地に挿したら、たちまち根付いて枝葉を茂らし、天下に異変のあるときは奇瑞を現す、と伝えられています。
 元の本殿はこのかたわらに鎮座していましたが、明治45年3月11日の火災で、神殿も御神木も共に焼けてしまいました。
 その後、神殿は現在地に再建されましたが、御神木は、不思議にも焼け残った幹からまた新しい芽が伸びはじめ、再びこんもりと繁茂するに至りました。
 この奇異な現象を目の当たりにした人々は、いよいよこの霊木を通じて信仰を深めました。
     良寛の歌
  いやひこの 神のみ前の 椎の木は 幾代へぬらむ 神代より かくし有るらし
  ほづ枝には 照る日をかくし 中の枝は 雲をさえぎり しずえはも いらかにかかり
  ひさかたの 霜はおけども しなとべゆ 風は吹けども とこしへに 神のみ代より
  かくてこそ 有りにけらしも 伊夜日子の 神のみ前に 立てる椎の木


イラスト 泣き仏(なきぼとけ)
 越後に配流されていた親鸞聖人は、彌彦大明神に参拝して、しばらく社家の高橋舎人(たかはしとねり)方に滞在しました。その記念にといって残された一体の仏像は丁重に祀られていましたが、その後、古くから親しくしていた石瀬の種月寺に懇望されて、同寺の仏殿に安置されることになりました。ところが仏殿から、
 「舎人ヘ帰りたい、舎人ヘ帰りたい。」
 という泣き声がしたので寺僧が行ってみると、仏様は顔をゆがめて泣きじゃくっており、いろいろ手を尽くしてみましたが、泣き止みません。
 仕方なく再び高橋家へ戻すと仏様は泣くのをやめて、元の慈しみ深い顔になられました。人々は「泣き仏」の不思議を語り伝え、高橋家の秘仏になったといいます。
 今、泣き仏は彌彦神社でお預かりしています。


イラスト 利兵衛さんの狐(りへえさんのきつね)
 150年ほど前のこと、境江の利兵衛さんの屋敷の裏に森があって、そこに夫婦の狐が住んでいました。八百松という息子がその狐と親しくしていて、暇があると森の狐と遊びたわむれて、かわいがっていました。八百松が病気で幾日も寝ているとき、看病していた母とこんな話をしました。
 「自分が病気で幾日もこんなに苦しんでいるのに、裏の狐は何もしてくれない。」
 「いくら仲良しでも相手は畜生だもの。」
 翌朝、勝手の流しに大きな鯉が2匹置かれていました。二人の話を聞いたのか、感じたのか、とにかく狐の届けてくれた見舞とわかって八百松は喜んで食べ、まもなく元気になりました。
 あるとき、母狐が幼い何匹かの子狐を残して死にました。利兵衛さんの家では気の毒に思って、みんなが何かと目をかけてやりました。やがて、村の人々の間で、狐の嫁入りがあったという評判がたちました。八百松は狐の穴の前へ行って、狐を呼びました。雄狐が穴から出てくると、左手で片目を押さえて八百松の前にうずくまりました。そのあとから出てきた雌狐をよくみると片目が不自由でした。八百松が、
 「片目が見えなくても、子どもをかわいがってくれれば、立派な嫁だ。」
 といったら、2匹して尾を振りました。
 八百松が成人して嫁をもらうときは、鴨2羽をお祝いに届けたそうです。今から100年以上も前に森が伐られたころから、その狐の姿は見られなくなりましたが、穴はその後も残っていたといいます。


イラスト 麓の狐(ふもとのきつね)
 昔、麓に庄吉という猟師がいました。ある日、狐を捕らえようと思って、ときどき狐の出てくる林の中に罠をしかけました。狐はネズミの天ぷらが大好きだと聞いていたので、天ぷらを罠のえさに付けました。そして庄吉は友達の家に遊びに行き、夜遅くまでカルタ遊びをしていました。すると夜中に、家の戸口の外から庄吉の名を呼ぶ聞こえました。
 「庄吉、庄吉!罠のえさにネズミの天ぷらを用いてはよくないぜ。二度と用いてはくれるなよ。」
 だれの声だろう。庄吉にはわかりませんでしたが、カルタに熱中していたので、そのまま聞き流しました。翌朝、林へ行ってみると大きな古狐が罠にかかって死んでいました。庄吉は昨夜の呼び声を思い出しました。
 −俺にネズミの天ぷらを用いるなと呼びかけたのは、きっとその古狐に違いない。好物の天ぷらは食べたい。しかし、食べれば罠にかかって死なねばならぬ。わかっているが、匂いを嗅いだ以上は、ぜひ食べたい。それで古狐は俺の遊んでいた友達の家まで来て、俺に言葉をかけ、そして天ぷらを食べて罠にかかったのであろう。−
 と、庄吉は古狐が気の毒になりました。
 −自分などは、おいしい物が食べたいと思えば努力次第で存分に食べることができるのであるが、狐や狸にはそれができないのだ。人間の身をもって生まれたのは幸せであった−
 と思ったということです。


イラスト A穴の狐(えびあなのきつね)
 −今日はA穴(弥彦村の地名)の狐を聞かせようかな。
 「あい!」
 −大工さんがね、夕方、仕事を終えてA穴まで来ると、泉(弥彦村の地名)の灯が見えるんだ。
 「ふぅーん。」
 −急いで自転車を踏んで、どんどん行くと、いつのまにか同じ場所に来るんだと。
 「ふぅーん。」
 −一生懸命に走っても同じところに来るんで、A穴の家で、泉はどっちだろう、と聞くとね。
 「うん!」
 −あの灯りの見えるところだ、と教えてくれたんでね、喜んで一面草原の田んぼの中を急いで走っていったって。
 「ふぅーん。」
 −どうも走らないので、自転車を見ると、輪が草で空回りしているんだって。
 「ふぅーん。」
 −いくら走っても、泉の灯りが見えるのに着かないんだな。大工さんもすっかり疲れて、タバコを一服つけたとたんに狐が離れたと。狐に化かされたんだね。自転車は動かんし、しかたないんで自転車を引いて、10時過ぎにやっと家へ帰ったって。


イラスト 矢作山の五兵衛狐(やはぎやまのごへえきつね)
 矢作山の五兵衛狐は人をだますことが大好きですが、お人よしの方でもあったということです。いつも馬のフンを「おはぎ」にしたり、木の葉をお金にしたりして、人のごちそうを取り替えては喜んでいました。
 あるとき、おじいさんがよそへよばれていき、ごちそうをわらっとこにして手に下げて家に帰る途中のことです。五兵衛狐は何とかしてそのごちそうを取りたいと思い、娘に化けて後になったり、先になったりしていました。その仕種からおじいさんは悟って、
 「ははぁー、俺を化かして物を取るつもりだな。」
 と思い、
 「おいおい娘!おまえは俺のごちそうがほしいのだな。俺はそんな良い娘をおんぶしたことがない。俺におぶさればこのごちそうは全部おまえにあげるから、俺におぶされや!」
 と言いました。娘(狐)は、おぶさればごちそうがもらえるものと思ったのでおぶされましたが、いつまでもいつまでもおろしてごちそうをくれない。そのうちに家の近くになるので、
 「早くおろしてうまいものくれや!」
 といってもおろしもせず、どんどんと家に近づきました。狐はがまんできなくなって、狐の大切な宝の"へ"を一発放したけれども、おじいさんはそれくらいではへこたれず、とうとう家の中へ連れて入ってしまいました。
 さて、狐もどうしようもなく、家の片隅でぶるぶるとふるえていました。おじいさんは、
 「おい、五兵衛狐や!おまえは人を化かしたり、物を取ったり、悪いことばかりしてきたやつだが、これからこんな悪いことをしなければゆるして解き放してやるがどうだ!」
 と狐に問いました。狐は涙をこぼして、
 「これからは改心し、決して悪いことはしない。」
 とあやまりました。おじいさんは気の毒に思い、放してやりました。それからというもの、悪いことをしない良い狐になったということです。


イラスト 松尾芭蕉の宿(まつおばしょうのやど)
 「おとうちゃん!芭蕉という俳句の神様が弥彦に泊ったんだってねえ。」
 −そうだよ。だけどね、どこへ泊ったか、はっきりわからないんだ。
 「宝光院様に泊まったんだって?」
 −誰から聞いた?
 「今日ね、先生が教えてくれたよ。」
 −そうか、そうか。
 ところで、芭蕉は伊賀上野(現・三重県)の出生で、29歳の春、江戸へ出て俳諧師として名を売り、元禄2年3月27日江戸の千住を出発、「奥の細道」の旅路につきました。奥羽・北陸巡遊、門人曽良(そら)を伴い彌彦神社に参拝しています。
 曽良の「随行日記」によれば、元禄2年7月2日新潟に到着し、大工源七の家に泊り翌3日、歩いて弥彦に午後5時ころ着き、宿を取って彌彦神社に参拝し、翌日午前8時ころ猿ヶ馬場を越えていることになります。
 なお、新潟の宿は大工源七とありますが、よくわかっていません。出雲崎、その他県内の宿も、今ではほとんどわかりません。紹介状を持って行ったのに、忙しいから、と宿を断られたりしています。歓待された宿では、10日・20日も泊って句会を催して指導をしていました。
   荒海や 佐渡に横たふ 天乃河
 の句碑を宝光院で建立し、毎年7月3日に「奥の細道を訪ねて」の行事が行われます。


イラスト 和尚と小僧(おしょうとこぞう)
 あるところに和尚と小僧がいました。和尚は人一倍欲張り屋でした。小僧は人一倍働き者で、洗濯やふきそうじもまめまめしくしました。
 ある時、小僧は寺の用事で出かけましたが、途中、にわか雨が降ってきたので早く用事を済ませ、寺に帰りました。和尚は、小僧が早く帰ってくるとは思わなかったので、「小僧のいない留守に、うまいものがないか」と思い、あたりをうろうろ探していたところ、うまそうな御供餅があったので、「これでも食べようか」と"よろぶち"の灰汁の中へ二つ三つくべて、今、食べようと思っていました。その矢先、
 「和尚様、ただ今帰りました。」
 という大きな小僧の声がし、和尚もなすすべなく驚いて、灰汁をかけ、知らん顔をしていました。小僧は、
 「和尚様、和尚様。今、隣の村に建前がありましてね。この"よろぶち"を土台とすると四方に柱が立って、ここにも柱が立っています。」
 と火箸を"ブスリ"御供餅の上にさし、火箸とともに御供餅があがってきました。和尚が「シマッタ」と思っているところへ、小僧は、
 「和尚様、和尚様。これは何でしょう。」
 というと、和尚様は、
 「それはおまえにさずかったものだから、食べなさい。」
 といいました。
 小僧は喜びながら、ここにも、ここにも…と、一本、また一本と刺したので、和尚は結局何も食べられず、小僧は"とんち"のおかげで、みんなごちそうになったということです。


イラスト カマイタチのこと
 以前は、「鎌鼬(かまいたち)」にかかった、という話をよく耳にしました。何かにつまずいたり転んだりしたはずみに、手か足の一部が急にパックリ裂けて、骨まで見えるほど大きな口をあけることがあるが、出血もなく、痛みもさほどでないそうです。昔からこの現象を「鎌鼬」といって恐れ、目に見えない鼬のような妖怪の仕業だと思っていたらしく、越後七不思議の一つに数えられており、信越地方に多いといわれます。木の葉を吹き上げる風の渦の中心に、鎌をもった恐ろしいイタチがいる「鎌鼬」の古絵図もあります。また、『北越奇談』には、
 「弥彦山から国上山へ越す所に黒坂という所があって、そこで転んだ者は必ずこの不思議な目にあう。」
 と書かれています。この黒坂が一体どこをさすのでしょうか、今ではよくわかりません。
 俳句歳時記にも「12月」の季語になっているので、冬によくみられたことなのでしょうか。今ではほとんど聞かれなくなってしまいました。



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