彌彦神社にまつわる伝説


イラスト キコリの化石(きこりのかせき)
 「妻問石」「口あけ石」と呼ばれる話です。
 昔、寺泊地方を野積といいました。そのころ、この付近に海賊が出没して漁師を殺害し、船や金品を強奪していました。人々はこれを恐れて、当時、大和から越後に派遣されていた彌彦の神に訴えました。彌彦の神は、さっそく海賊を征伐し、奪われた品々を陸揚げして村の人たちに返しました。その品が海岸に山のように積まれたので、野積(のづみ)と名付けられたのだそうです。
 彌彦の神は大和を出るとき、美しい妃を残してきました。女は足手まといになるという理由からです。しかし、一人残された妃は夫に会いたくて、ある日大和を出て越後に向かい、野積の近くまで来ました。これを人づてに聞いた彌彦の神は、もうしばらくすれば越後の平定が終わるのに、今妻に来られては大変だ、と黙って山の中に隠れることにしました。
 ところが、山へ登る途中で、一人のキコリに会いました。神は、どうせ妻は自分の後を追ってくるに違いないが、その時、キコリに自分のことを話されては困ると思い、
 「私をたずねてくる女がいるだろうが、絶対に話してくれるな。もしも、約束を破ると、おまえを石にしてしまうぞ。」
 と言い渡して、山に登りました。
 妃がキコリに会ったのは、それから2・3日後でした。案の定、妃は神の行方をたずねました。キコリは神の言葉を思い、話すのをためらっていましたが、目の前で哀願している妃の姿をみて、気の毒になり、つい行き先まで話してしまいました。
 すると、妃の見ている前で、キコリはたちまち石になってしまいました。驚いた妃は石にとりすがってわびましたが、石は秋のにぶい陽を浴びて転がっているばかりでした。妃は自分の仕打ちを悔い、恋しい夫に会うのをあきらめて、そこに草庵を建て、一生、石になったキコリの霊を慰めて暮らしました。
 この石は、今も妻戸神社の一隅に置かれているといいます。


イラスト 安麻背(あまぜ)
 神代の昔、彌彦大神が越後開拓のため野積に上陸した当時のことです。弥彦山裏側にあたる日本海に面した海浜一帯に、安麻背と名乗る凶賊が、たくさんの部下を従え、近隣を荒らし回り、多勢の婦女を略奪して、善良な住民から恐れられていました。
 安麻背は身長が1丈6尺余り(約4.8メートル)もあり、海中に飛び込んで素手で大魚をつかみ取り、けものを素手で打ち殺すほど力が強かったそうです。住民たちの話で、手ごわい相手と感じた彌彦大神は、部下と相談し、一計を立てました。
 安麻背は浜辺の岩屋で大勢の手下を相手に酒盛りの最中でありました。彌彦大神は、
 「大和朝廷より越の国の王である貴方に賜るために、特に鍛えた剣である。刃の鋭さは大岩を断ち割り、荒波をも二つに分かつほどすばらしい。また、酒は、特に醸した天下一の美酒。多いに飲んで賞味されたい。」
 と、一振りの美しい長剣と香り高い酒を安麻背に手渡しました。
 よろこんだ安麻背は、さっそく自分の腰に付けていた山刀と取り替え、彌彦大神の一行を座に迎えて、贈られた美酒で乾杯しました。
 宴もたけなわとなり、ころあいをよしとみた彌彦大神は、そこで、
 「これから浜辺に出て、差し上げた剣で貴方のすばらしい腕前のほどを見せてほしい。」
 ともちかけました。
 酔いも回り、上機嫌の安麻背は、
 「ヨーシ。」
 と、求めに応じて外に出て、
 「いでや、わが腕前のほどを見せん。」
 と、腰の長剣を引き抜くと、波打ち際の大岩にハッシと振り下ろした。
 ところが、折れないと思っていた剣は、根元からポッキリ…。
 「計られた!」
 と安麻背が気付いたときは、すでに遅かった。彌彦大神に胸元に剣を付きつけられ、縄でしばりあげられてしまいました。
 しかし、彌彦大神はその後、捕らえた安麻背をよく諭し彼も改心を誓いました。以後、安麻背は彌彦大神の家臣となり、浜の開発と漁業の振興に励み、大いに栄えたといいます。
 安麻背のものがたりは、現在の間瀬浜開拓の由来ともいわれています。


イラスト 彌彦大神の雷退治(やひこおおかみのかみなりたいじ)
 大昔、彌彦の大神様がある夏の一日、米水浦(野積の浜)で、里人たちに一生懸命塩を作る方法を教えておられました。
 一日がかりの作業で、夕方にはたくさんの塩ができあがりました。皆が大喜びの最中、突如として雷鳴が轟き、一天にわかにかき曇って、夕立がザーッと降り始めました。みるみるうちに、せっかくできあがったたくさんの塩をすっかり雨で流されてしまいました。
 彌彦大神様は大層お怒りになり、さっそく天に呼びかけて雷どもを集め、厳重に戒められたので、恐れ入った雷連中は、
 「申し訳ありません。今日以後は、絶対にこの地方では雷を鳴らさず、夕立も降らしませんから、どうぞお許し願います。」
 とお詫びして固く誓約したとのことです。
 このような理由で、弥彦山には夕立も降らず、雷も鳴らないと言われています。
 彌彦大神の雷退治にはもう一つ伝説があります。
 彌彦大神様が、ある夏の夕方、弥彦山中を巡視されている時に、にわかに雷鳴が轟き、夕立が降ってきました。驚いた大神様は、雨宿りをされるために山道を走っている途中、道ばたのウドの鋭い新芽に目をつつかれてしまいました。
 大神様は、さっそく、雷とウドに厳重に注意したので、恐れ入った雷は、
 「以後は絶対に弥彦山の上で雷を鳴らさず、夕立を降らしません。」
 と誓い、ウドは、
 「これからは弥彦山には絶対に繁殖しません。」
 と誓ったといわれます。
 現在でも弥彦山でウドをみることは、きわめてまれです。
 この彌彦大神様の雷退治の伝説に由縁して、昔はこの地方の民衆の間に、
 「彌彦様は雷除けの神様である。」
 との信仰があり、そのお守りとして御神札をいただいていく風習があったといわれます。
 今はこの地方では、このような信仰は聞きませんが、遠く離れた群馬県・茨城県・埼玉県などの地方で、「越後一之宮お彌彦様雷除け」の信仰があり、彌彦神社の御神札をいただく風習がなお残っているといいます。
 昔は、関東一円に毒消し売りに出かける売り子さんたちが、信仰者から依頼されて彌彦神社の御神札をいただいて、年に一回届けてやったという話も語り伝えられています。


イラスト 津軽火の玉石(つがるびのたまいし)
 慶長年間(1596〜1615)、弘前(現・青森県弘前市)の城主、津軽信牧候が、江戸表より航路帰国の途中のことです。佐渡沖合を通過する際、にわかに暴風雨に遭い、みるみる大波のため、御座船がくつがえらんばかりになりました。
 かねてより、彌彦大神の御神威の広大さを聞いていた殿様は、激しく揺れ動く船中から、はるかに弥彦山に向かって鳥居奉納を誓って神助を願ったところ、たちまち海は静かになって、一同は無事、帰国の途につきました。
 それからは、毎年使いをつかわして礼参を続けていましたが、鳥居献納のことはそのままに過ぎていきました。
 すると不思議なことに、しばらくすると、毎夜のように、天守閣を中心に城内を二つの火の玉が大きなうなり声を発しながらぐるぐる飛び廻る、という異変が起こりました。城中一同は、毎夜毎夜、この現象にすっかり悩まされるという大騒ぎになりました。
 驚いた津軽候は、さっそく城内をくまなく調べたところ、この二つの火の玉石はちょうど大人の頭ほどの大きさの石であることが判明しました。
 津軽候は心中深く思いをめぐらしたところ、彌彦神社に自分の誓願を果たしていなかったことを思い出し、さっそく工事にかかり、元和3年(1617)9月、めでたく大鳥居を奉納したと伝わります。
 同時に、この霊威を示した火の玉石もいっしょに彌彦神社に納められました。
 現在、この二つの火の玉石は、俗に「津軽火の玉石」「重い軽いの石」と呼ばれ、表参道神符授与所前の一角に安置されており、昔から、心願のある時これを持ち上げられれば事は成就し、重くて上げられない時はかなわないと言われ、今も熱心にお祈りしている人々を見かけます。


イラスト 九鵙(くもず)
 九鵙は、大昔、守門岳のふもと刈谷田川の流域にはびこっていた賊の首領です。水練に達し、暴行を働いて、追い詰められると川に逃げ込み、淵に沈んで幾日も出てこないということです。
 この様子をつぶさにご覧になった天香山命(あめのかごやまのみこと)は、臣下に命じて、たくさんの「しょうが」を集めさせ、これを砕いて赤土と混ぜ合わせ、上流から淵に投げ込ませました。すると九鵙は耐え切れなくなって、浮かび出てきました。そこを捕らえて、その非を悟らせ、今後は人民を害さないことを誓わせて釈放したそうです。


イラスト 十宝山の御神鏡物語(とだからやまのごしんきょうものがたり)
 彌彦大神が越後地方開拓経営の大任を帯びられて多数の部下を引率し、はるばると大和の国より若狭湾に出て、ここから天の鳥船に乗船し、日本海を北上して米水ヶ浦(寺泊町野積浜)に上陸されたのは、神武天皇御即位後4年目の年でありました。
 大神様はこの時、大和朝廷からたくさんの天璽瑞宝(てんじずいほう 十種の神宝)を持参されました。
 さて、越後地方開拓の大業がようやく一段落した時、この持参された御神宝類を十宝山(とだからやま)の頂上に埋納せんとお考えになり、その作業を重臣の一人であった稚彦命(わかひこのみこと)に命ぜられました。
 命を受けた稚彦命は、さっそく長男の小稚彦(こわかひこ)を始め、家臣一同と共に十宝山の山頂に登り、幾日もかかって大切な埋納作業を行いました。さて、いよいよ作業も終わりに近づいたある夜、たくさんの宝物類の中でも一番大切な御神鏡が紛失している事が判明しました。
 さあ大変!
 驚いた稚彦命を始め、家臣一同必死になってあちこち手分けをして探し廻りましたが、御神鏡は一向に発見できません。
 困り果てた稚彦命は、この上は一死をもって大神様にお詫びせんと覚悟を定め、急ぎ下山して恐る恐る御神鏡紛失の事を申し述べました。
 彌彦大神は静に論して曰く、
 「死んで詫びることは誠に簡単である。しかし、死んで詫びたからといって、大切な御神鏡が発見されるわけではない。殊に、永年私といっしょに越後地方開拓のために苦労をともにした家臣である。よって、本日より暇を与えるから、時間を惜しまず、十分に念を入れて御神鏡の行方を探し出すようにせよ。」
 と命じられ、探索の旅にあたって、一振りの神剣を授けられました。
 恐れかしこまった稚彦命は、さっそくその足で長男の小稚彦一人だけを供に連れて、いよいよ御神鏡探しの長い旅路に出発しました。
 それから十数年が経ちました。御神鏡探索の旅は歳月のみ空しく過ぎ去り、一向に捜し求める事もできないまま、稚彦命はすっかり寄る年波に白髪と変わりました。
 ある晩秋の一日、北辺のとある海浜にたどり着いたとき、疲れと悲しみのあまり、ついに一軒の漁師の家で病の床についてしまいました。今は立派に成長してたくましい若者に育った長男の小稚彦を枕辺に呼び寄せ、稚彦命は涙ながらに言いました。
 「私はこの寂しい浜辺で志も空しく死んでゆくが、お前はこの父に代わってあくまでも御神鏡を探し出し、弥彦でお待ちになっている大神様にお届けし、父の不忠をお詫びするとともに、この父の分までお仕えして忠勤を励めよ。」
 小稚彦は詮方なく、病床の父の看病を漁師夫妻にくれぐれも頼み、父が出発の際大神より授けられた神剣を背に、再び一人で御神鏡探しの旅に出発しました。
 さて、その年も過ぎて、再び春がめぐってきたある夕暮れ時、小稚彦は大きな山の麓にある小さな小屋の軒先にたどりつきましたが、疲労の余り、そのままうとうとと眠り込んでしまいました。
 深夜、ふと気がつくと、小稚彦の枕元に上品な白髪の老夫婦が座ってさめざめと泣いているではありませんか。
 驚いた小稚彦は、
 「どうした訳か、なぜ二人してここで泣いているのか。」
 と尋ねると、
 「何を隠しましょう。私ども老夫婦は、実は永年この先の山の頂上に棲む白鳥であります。あなたがお父さんといっしょに永年探し求めています彌彦大神様の御神鏡の行方を知っている者です。お探しになっている御神鏡は、この山奥深くにひそんでいる大鷲が持っています。
 実はこの大鷲は永年にわたって猛威をふるい、私たちのかわいい子どもや孫を年々喰い殺してしまい、本当に困っています。彌彦大神様の大事な御神鏡も、実はこの大鷲が十宝山頂から盗み取って来たのです。
 しかし、今日、あなたがここへ来られたのは決して偶然ではありません。彌彦大神様と、病の床であなたの手柄をお待ちになっているお父さんのお導きと思います。あなたの忠臣孝子のお心には必ずや天の祐けがありましょう。
 どうぞ、この大鷲を征伐して、御神鏡を取り戻すとともに、永年苦しめられてきた私どもの難儀をお救いください。」
 と、涙ながらに語り終わるや、すーっと姿が消えてしまいました。
 ハッ!と目覚めた小稚彦は、
 「さては今のは夢であったか!」
 と驚いてあたりを見渡すと、既に白々と夜も明け始め、上空には二羽の大白鳥があたかも道案内せんとする様子で、ぐるぐる輪を描いて飛んでいる姿が見えるではありませんか。
 「これこそ正夢。」
 と、喜び勇んで小稚彦はすぐさま身支度も厳重に、かの白鳥の飛んでゆく跡を追いました。そして、山奥深く踏み入り、やがて山頂の大岩に止まってランランと目を光らせている大鷲を発見しました。よく見ると、まさしくかたわらの巣の中には、永年探し求めた御神鏡が見えるではありませんか。勇躍した小稚彦はすぐさま彌彦大神より授けられた件の神剣を振って大鷲に立ち向かいました。
 力戦奮闘することしばし、ついに神剣を振りかざして見事大鷲を退治し、ここにめでたく御神鏡を取り戻すことができました。
 喜びの涙にくれる白鳥に見送られながら、病の床にある父のもとへ夜を日についで急いだ小稚彦は、今や、まさに息もたえだえの稚彦命の枕元へようやく帰り着きました。さっそく、件の御神鏡を取り出したところ、その霊気によりたちまち稚彦命の病気も全快しました。急いで弥彦の宮居へ立ち帰って、この様を報告せんとしたところ、彌彦大神はこの現世を神去りました後でありました。
 父子は、永年辛苦の結果、ようやく取り戻すことができた御神鏡を大神の御廟前に供え、天を仰ぎ、地に伏して嘆き悲しみましたが、今やなすすべなく、彌彦大神の命のまにまに再び十宝山頂に深く御神鏡を埋納し、以後、長くそれが守護にあたったと伝わります。
 十宝山頂、十種の神宝埋納にちなむ伝説です。


イラスト 四足二足(よんそくにそく)
 天香山命(あめのがごやまのみこと)は、孝安天皇元年2月2日、一世の功業を終えて亡くなられ、山頂に葬り申し上げました。
 あるとき第二世五田根命(いつたねのみこと)がお墓参りに上られると、白い鳥が稲穂をついばんできました。一方からは黒い鳥が鮮魚を含んで飛んできて、共にお墓に供えて飛び去りました。五田根命はこれをご覧になって、
 「鳥類も心あって父神のご霊前にお供えするのだろう。」
 とその優しい心根に感動され、そのときから四足二足(鳥類)の肉を召しあがれないようになりました。
 弥彦の社家や住民が近代になるまで肉や卵を食べない慣わしがあったのは、その風習に由来するものと伝えられています。



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