地名にまつわる伝説
・妙多羅天女と婆々杉   ・聖人清水

湯神社(石薬師大明神)と弥彦温泉発祥の由来
(ゆじんじゃ〈いしやくしだいみょうじん〉とやひこおんせんはっしょうのゆらい)

 今を去ること一千年の昔。
 伊夜日子の里(弥彦)に権九郎(一説には雁九郎)という猟師が住んでいました。
 ある年の秋の一日、朝早くから十宝山・弥彦山・国上山の峰々を駈け廻りましたが、その日に限らず、あいにくと兎一匹、山鳥一羽も獲ることができず、夕暮れ近くすっかり疲れ果てて熊ヶ谷の林中に入りました。
 「何という不猟の日だ。やれやれ仕方がない。家へ戻るか。」
 と、ひとり言をつぶやきながら、ぼんやり山道を歩いていると、突如、目の前の林中からバタバタと大きな羽音をたてて一羽の山鳥が飛び立ちました。
 「やーれ、良き獲物ござんなれ。」
 と権九郎は素早く肩の弓矢を取り直し、ヒュ−ッとばかり弦音多角一矢射放したが、残念なり。矢は山鳥の下羽近くを傷つけたのみらしく、手負いの様子のまま飛び去ってしまいました。
 「えー、くやしいっ。」
 と、がっかりしたものの、それでもなおあきらめきれずに、山鳥の飛び去った方向に向かってどんどん林中を進むと、突如、目の前がにわかに開けて、行く手の低地の中頃にきれいな池があるのが目に入りました。
 のどの渇きを癒さんと思った彼は、生い茂る草をかき分けつつ池に近寄ったところ、こわ不思議、池の中央からコンコンときれいな湯が湧き出ていました。しかも池の中には先ほど射損じた山鳥をはじめ、たくさんの鳥獣がいっしょに仲良く湯浴みをしている様子です。
 驚きのあまり声もなく、しばらくそっと眺めていた権九郎は、やがてハタと膝を打ち、心中深くうなずくや、さっそく自身もくるくると身につけた衣類を脱いで、静かにこの池の中に身を沈めました。
 お湯の加減もちょうどよく、一日の疲れがみるみる取れていくのがわかりました。しかも、朝から山中を歩き廻って受けた切り傷やカスリ傷の痛みもどんどん快復していく様子に、今やすっかり狂喜した彼は、取るものも取りあえず、すぐさま里に飛んで帰り、村人にこの事実を告げて廻りました。
 権九郎の話を聞いた村人たちは、さっそくわれもわれもと熊ヶ谷に押しかけ、先を争って入浴しました。話の通りのすばらしい効果に、たちまち湯の評判は広まり、しばしの間に熊ヶ谷一帯はにわかに開け、人家が立ち並び、「弥彦の霊泉」と遠近にその名声もひびいて、大層な賑わいを呈するようになりました。
 かくて、村人たちは彌彦神社の神官にお願いして、池の傍らの大岩を背に神社を建立し、お湯の神・薬の神・熊ヶ谷集落の守護神として大穴牟遅命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)二神をお祀り申し上げ、神社の名称も「湯神社」とお呼びして深い信仰を捧げ、弥彦霊泉はその後ますます発展しました。
 しかし、時代も移って数百年の後、自然とお湯の噴出も止まり、だんだんと人家も散じて徳川時代の始めにはすっかり集落もなくなり、わずかにこの湯脈のつながりでもあるのでしょうか、山裾の観音寺集落に霊泉の名残をとどめて現代に至っています。
 にもかかわらず、湯神社の信仰のみは、人家も絶え、集落が消滅しても尚変わりません。その後も神仏混交時代に一般民衆の名付けた「石薬師大明神」(謂われについては後述)の呼び名のもとに、特殊信仰は代々地方民衆の間に伝わって今日に至っています。

 この石薬師については、もう一つ伝説があり、明治時代に刊行された「温古之栞(第十四篇)」には、以下のような記述が載っております。 『矢立の石薬師は、珍しい形の石を二個重ねて祀り、傍らに梨の古木が一本茂っていました。結実が多く、形は普通ですが、味が悪くて食用にはなりません。歯をわずらう人が、この奇石に梨を切ってお供えし祈念すると、たちまち治るといわれました。』
 今となっては、その石も梨の木も確認することはできませんが、元々は石が神座で、社殿は全くなかったので「石薬師様」と通称され、諸病に霊験があるほか、願い事は何でもかなえてくださるとして、庶民に信仰されました。人里離れた社寺なので弥彦の人々が参拝するくらいのものでありましたが、大正の中ごろから崇敬者の範囲も広がるようになりました。このころからか、石薬師様は「一尺様」と誤釈され、一尺の蛇の神様と信ずる人もあり、蛇の好む卵が奉納されるようになった時期もありました。たまたま参拝したとき裏山から蛇が現れると、恐れ、またありがたがる人もあるといいます。今日でも各地に信仰者があり、年間を通して参拝者が絶えません。


妙多羅天女と婆々杉
(みょうたらてんにょとばばすぎ)

 彌彦神社の北、真言宗紫雲山龍池寺宝光院(しんごんしゅうしうんざんりゅうちじほうこういん)の阿弥陀堂に安置されている妙多羅天女像にまつわる伝説です。
 妙多羅天女は彌彦神社鍛匠(たんしょう)−鍛冶職の家柄−であった黒津弥三郎の祖母(一説に母)でした。黒津家は彌彦の大神の来臨に随従して、紀州熊野からこの地に移り、代々鍛匠として神社に奉仕した古い家柄でした。
 白河院の御代、承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、弥彦庄司吉川宗方の裁きで、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕すべしと決定されました。
 これを知った祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、庄司吉川宗方や工匠にたたり、さらに方々を飛び歩いて悪行を重ねました。
 ついには弥三郎の狩りの帰路を待ちうけ、獲物を奪おうとして右腕を切り落とされました。さらに、家へ戻って弥三郎の5歳ばかりになった長男弥次郎をさらって逃げようとしたところを弥三郎に見つけられ失敗しました。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまいました。
 それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、「弥彦の鬼婆」と恐れられました。
 それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかりました。
 驚いた典海大僧正は、老婆に説教し、本来の善心に立ち返らせるべく秘密の印璽を授けられ、「妙多羅天女」の称号をいただきました。
 高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、
 「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす。」
 と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだしました。
 その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったといいます。
 婆々杉は宝光院の裏山のふもとにあって、樹齢一千年を数えるといい、昭和27年、県の天然記念物に指定されました。
 弥彦山の頂上近く、婆の仮住居の跡といわれる婆々欅(ばばけやき)、世を去った土地といわれる宮多羅(みやたら)の地名もあります。この欅は農民が雨乞い祈願に弥彦山へ登山するとき、必ず鉈目を入れたといわれている大欅です。

・湯神社    ・聖人清水


聖人清水(しょうにんしみず)

 聖人清水は、彌彦神社門前町の旧家林部宅の裏にあります。
 浄土真宗の開山親鸞聖人は承元の乱に都を追われ、承元元年(1207)、35歳の時、越後の国府(現・上越市五智)に配流の身となりました。越後国在住中に彌彦神社を参拝し、その時宿泊したのが当時の庄屋林部四郎左衛門宅でした。
 一帯は昔から堅い岩盤で、水不足に悩まされていました。ある日、近くの川から水を汲み上げて運んでくる老女を哀れみ、林部宅の裏の竹林の一隅を持参の杖で突いて仏に念じたところ、たちまち水がコンコンと湧き出したと伝えられています。
 人々はこの聖人の徳を喜び、以後、今日に至るまで「聖人清水」と呼ぶようになりました。
 親鸞聖人が彌彦神社参拝の折に詠まれた和歌一首が次のとおり語り伝えられています。
   願はくは 都の空に 墨染の 神吹き返せ 椎の下風
 親鸞聖人が林部家に滞在した際、使ったといわれる「鍋」が、いつのころからか、大字麓の分家林部名兵衛家に渡り、その後、麓の廣福寺(こうふくじ)(浄土真宗仏光寺派)に納められました。
 聖人は越後国に7年間滞在しましたが、各地に伝説が残されています(親鸞聖人の越後7不思議伝説)。その後、聖人は常陸国(現・茨城県)に移られました。

・湯神社   ・妙多羅天女と婆々杉


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