上杉謙信・直江兼続(天地人)にまつわる 弥彦の歴史探訪

  〜越後の英雄 黒滝の地で地位を固める〜
戦国の名将「上杉謙信」が登場するNHK 大河ドラマ『風林火山』が2007 年に放映されました。そして、2009 年のNHK 大河ドラマでは、上杉謙信を師と仰いだ主人公「直江兼続」の生涯を描いた『天地人』が予定されています。いずれも越後が生んだ英雄上杉謙信を取り上げています。
当地弥彦村にも、知略に富み義を重んじた戦国武将上杉謙信が、若き日に越後の国人領主の支持を集めるきっかけとなった「黒滝城の攻略」や「彌彦神社への祈願文」を奉っています。
上杉謙信の戦歴を見ると武田信玄や織田信長といった戦国時代の名将と戦を重ねていますが、その戦いは欲によるものではなく、義を重んじ出兵したものだったといわれています。また、敵対していた武田信玄が今川氏真によって塩を断たれた際、今川の行為を批判し、武田に塩を送ったエピソードは有名で、江戸時代の陽明学者頼山陽が讃えて「敵に塩を送る」という故事が生まれたといわれています。

  こちらの人物関係図と併せてご覧ください。


【黒滝城とは】

弥彦村麓の西約1キロ、城川の谷奥に一際高くそそり立つ(標高246m)黒滝城は、中世の動乱期に「黒滝要害」と呼ばれ、北陸道の軍略上の要衝として重要な役割を果たし、越後守護上杉氏の要塞でした。
黒滝城の規模はきわめて大きく、山上には要害、麓集落には城主や家臣、これにともなう家族や従者の舘・根小屋を構え、近くに剣ヶ峰(標高292m)の出城を築き要害と指呼の間で結ばれています。展望は絶好で、寺泊・野積・猿ヶ馬場など交通上の要衝と渡部城・夏戸城など軍事戦略上の要衝をすべてけん制できる位置にあり、天嶮に構えた一大山城でした。天神郭下段には櫻井戸と呼ばれる大井戸の跡があり、この井戸は豊富な清水が湧き出て、山城に欠かせない水の便でした。城岩北側に黒い岩壁から流れ落ちるのが黒滝で、城名もこの滝に因んだものと伝えられています。
慶長3年(1598 年)、上杉景勝の会津移封により黒滝城は廃城となりました。
昭和50 年11 月弥彦村文化財として指定され、現在は黒滝城址森林公園として整備されています。林道が山の上まで通じているため、容易に散策することができます。また、早春には雪割草・カタクリが咲き乱れる観光スポットでもあります。

   
※クリックで拡大表示


【上杉謙信の黒滝城をめぐる攻防】
戦国時代に入ると越後守護の上杉氏と守護代長尾氏との対立が激化、長森原の戦い(1510年)で、長尾為景(上杉謙信の父)が関東管領上杉顕定を自刃に追い込み、事実上越後は守護代の長尾氏の支配下に置かれることとなります。
天文5 年(1536 年)、為景は長男晴景に家督を譲った後、まもなく没していまいます。為景の死後は、これを待っていたかのように国人領主たちの叛乱が相次ぎ、晴景はこれを抑えきれず、春日山城下の林泉寺にいた当時14 歳の弟の景虎(後の上杉謙信)を栃尾城に配置しました。
当時の黒滝城主「黒田秀忠」は三条城主長尾俊景らとともに守護代長尾晴景に謀叛を起こします。晴景は当時栃尾城に配されていた弟の長尾景虎(後の上杉謙信)に命じ、処分しようとしましたが守護上杉定実の取りなしにより、秀忠は丸坊主になって他国に逃れることで、助命を赦されました。しかし、秀忠は密かに領内に戻り黒滝城に一族を集め、抗戦の構えをとったので、定実の同意の上、天文15 年(1546 年)、景虎は激怒して討伐、黒田一族はことごとく自刃して滅びました。時に景虎はわずか16 歳でした。若き日の上杉謙信・景虎が武名を轟かせる格好の演出の場となったわけです。

【黒滝城跡より越後平野を望む】
(2007 年NHK 大河ドラマ「風林火山」で、ミュージシャンのGackt 扮する長尾景虎の登場シーンが、この黒滝城討伐の場面でありました。)


【上杉謙信の台頭】

【春日山城の上杉謙信像】
黒滝城の戦いを通じて、処分を断行した景虎(後の上杉謙信)の声望は上り、景虎の勢力は確立しました。しかし、今度は兄晴景が景虎に対して危機感を抱き、景虎討伐軍を出陣させます。景虎は米山の戦いで討伐軍を破り、春日山城下に迫りましたが、天文17 年(1548 年)、定実の取りなしによって晴景から景虎に家督が譲られ、腹心本庄実乃を伴って春日山城に入城。この時、景虎19 歳。
守護上杉定実に跡継ぎがいなかったために、景虎はやがて上杉の名跡と関東管領を引き継ぎ、政虎→輝虎→謙信と名を変えていきます。5 回に及ぶ川中島の合戦で武田信玄と死闘を繰り広げたほか、生涯に七十余回も戦ったとされていますが、領土拡大のための戦はしませんでした。筋目が通っていればどこにでも駆けつけて力を貸した謙信は、乱世には稀な義に生きた武将でした。自ら北天の守護神毘沙門天となることにより、乱れた天下の秩序を回復すべく生涯戦い続けました。この謙信の私利私欲では戦わない「義」の精神が、そのまま次代の上杉景勝や直江兼続に受け継がれていき、この度の「天地人」の大河ドラマ化でもあるようです。


【黒滝城と上杉家】
黒田一族討伐後の黒滝城主は上杉家の重臣山岸出雲守光祐で、以後山岸秀能、村山慶綱らが城主となりました。因みにこの頃の山岸氏は彌彦神社宮司に次ぐ戸内職となって神社をも勢力下におき、同じ弥彦村にある桔梗城の城主も兼任していたようです。
上杉謙信には実子がなく天正6年(1578 年)に急死すると、二人の養子・喜平次景勝と北条三郎景虎が家督をめぐって対立した御館の乱が勃発します。御館の乱は、初めは景勝と景虎との権力争いでありましたが、後に景勝の反対勢力の制圧へとその性格を変えていきます。景勝は謙信の死後3年にしてようやく敵対勢力を制圧し、中郡まで統一することが出来ました。この際、黒滝城主山岸氏は、父子で景勝方に味方し軍功をあげ、その後の越後統一(阿賀北衆鎮圧)にも大きく貢献しました。
御館の乱後、景勝政権の中枢は直江兼続を筆頭に上田衆で固めていきます。当時の家臣たちは、景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し、事実上、二頭政治に近いものでありました。1582 年、織田信長軍の北征に窮地に立たされますが、本能寺の変により信長が自害したため上杉家は九死に一生を得ます。その後は、豊臣秀吉に臣従するかたちで後に豊臣政権の五大老の一人となります。慶長3年(1598 年)、秀吉の命により上杉景勝は突然会津へ(対伊達政宗の名目で)国替えとなります。この会津移封により山岸氏一族もこれに従い黒滝城は廃城となりました。


【上杉謙信・彌彦神社に祈願文を奉る】
本書は永禄7 年(1564 年)に上杉謙信(上杉輝虎)が彌彦神社に奉った願文で関東・信濃・越中など出兵の理由を明らかにし、繰り返し、正義の戦いであって、断じて私利非道は行わない旨を誓い、神助を祈っています。謙信の潔癖と律儀な性格、さらに筋目を立てるという意志が強く打ち出されている願文(県指定文化財)であり、ひたすら神に信仰を傾け、非分のことは一切せず、筋目を通すという生一本で清廉な武将謙信の戦いに明け暮れた生涯の原点を覗わせる貴重な資料で、直江兼続等が薫陶を受けた謙信の「義」の精神の証ともなっております。

『上杉輝虎祈願文』彌彦神社宝物殿所蔵
 ※人物関係図
   
 ※弥彦村役場ホームページ

 ※NHK新潟放送局「天地人」公式サイト内「深沢弥七郎と黒滝城」

 
耳寄り
一つ前へ戻る
耳寄り
ホームへ