弥彦の昔話

【妙多羅天女と婆々杉】
 彌彦神社の北、真言宗紫雲山龍池寺宝光院(しんごんしゅうしうんざんりゅうちじほうこういん)の阿弥陀堂に安置されている妙多羅天女像にまつわる伝説です。
 妙多羅天女は彌彦神社鍛匠(たんしょう)−鍛冶職の家柄−であった黒津弥三郎の祖母(一説に母)でした。黒津家は彌彦の大神の来臨に随従して、紀州熊野からこの地に移り、代々鍛匠として神社に奉仕した古い家柄でした。
 白河院の御代、承暦3年(1079)彌彦神社造営の際、上棟式奉仕の日取りの前後について鍛匠と工匠(大工棟梁家)との争いとなり、結局、弥彦庄司吉川宗方の裁きで、工匠は第1日、鍛匠は第2日に奉仕すべしと決定されました。
 これを知った祖母は無念やるかたなく、怨みの念が高じて悪鬼に化け、庄司吉川宗方や工匠にたたり、さらに方々を飛び歩いて悪行を重ねました。
 ついには弥三郎の狩りの帰路を待ちうけ、獲物を奪おうとして右腕を切り落とされました。さらに、家へ戻って弥三郎の5歳ばかりになった長男弥次郎をさらって逃げようとしたところを弥三郎に見つけられ失敗しました。家から姿を消した祖母は、ものすごい鬼の姿となり、雲を呼び風を起こして天高く飛び去ってしまいました。
 それより後は、佐渡の金北山・蒲原の古津・加賀の白山・越中の立山・信州の浅間山と諸国を自由に飛行して、悪行の限りを尽くし、「弥彦の鬼婆」と恐れられました。
 それから80年の歳月を経た保元元年(1156)、当時弥彦で高僧の評判高かった典海大僧正が、ある日、山のふもとの大杉の根方に横になっている一人の老婆を見つけ、その異様な形態にただならぬ怪しさを感じて話したところ、これぞ弥三郎の祖母であることがわかりました。
 驚いた典海大僧正は、老婆に説教し、本来の善心に立ち返らせるべく秘密の印璽を授けられ、「妙多羅天女」の称号をいただきました。
 高僧のありがたいお説教に目覚めた老婆は、
 「今からは神仏の道を護る天女となり、これより後は世の悪人を戒め、善人を守り、とりわけ幼い子らを守り育てることに力を尽くす。」
 と大誓願を立て、神通力を発揮して誓願のために働きだしました。
 その後は、この大杉の根元に居を定め、悪人と称された人が死ぬと、死体や衣類を奪って弥彦の大杉の枝にかけて世人のみせしめにしたといわれ、後にこの大杉を人々は「婆々杉」と呼ぶようになったといいます。
 婆々杉は宝光院の裏山のふもとにあって、樹齢一千年を数えるといい、昭和27年、県の天然記念物に指定されました。
 弥彦山の頂上近く、婆の仮住居の跡といわれる婆々欅(ばばけやき)、世を去った土地といわれる宮多羅(みやたら)の地名もあります。この欅は農民が雨乞い祈願に弥彦山へ登山するとき、必ず鉈目を入れたといわれている大欅です。

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